【美術展レポート】「没後50年 藤田嗣治展」に行ったら予想以上に楽しかった!

アート

もともと藤田嗣治の美術展には行くつもりはありませんでした。藤田の絵は、どことなくホラーのような怖さが感じられて、苦手だと思っていたからです。ところが最近読んだ本に、たまたま藤田嗣治がでてきました。

 

そこでは、“唯一、フランスで活動して世界に認められた日本人画家”というような説明がされていたのです。これを読んでものすごく興味がわいてしまいました。「そんなにすごい画家の絵なら一度は見ておこうかな」と。というわけで、開催期間が残り1週間をきっている段階でギリギリ滑り込んで見に行きました。

 

やっぱり絵画は生で見るにかぎります。美術館で見るのと、家に帰ってきてカタログで見るのとでは感動が全然ちがいました。逆に言えば、本や画像で見たことのある絵画でも、実際に見ると印象が変わるということです。もし、「本で何度か見たからいいや」と思っているのなら、それはもったいないと思います。本物の絵の前に立って、はじめて気づくことが絶対にあるからです。

 

ちなみに、東京都美術館での開催期間は10月8日までです。

が、そのあと10月19日から12月16日まで京都国立近代美術館でおなじ「没後50年 藤田嗣治展」が開催されます。

 

 

急きょ行くことを決めたので、事前に本を読み込むことはできませんでした。とりあえず、近くの書店にあった藤田嗣治の本を一冊、美術展に向かう電車の中で読みました。

これが結構面白くて、読みやすくまとまっている本です。「藤田嗣治展」に行く予定があるなら、読んでおくとさらに楽しめますよ。

 

 

 

特徴が定まらない?!

 

展示室の入り口付近の絵には人がたくさんいたので、少し先に進んだところから見始めました。そこで目に入ってきたのは、《人形を抱く少女》です。第一印象は、「肌の塗りかたがテキトー」でした。正直あまり上手いようには見えませんでした(そんなわけはありませんが)。

 

そう思ったら、近くにあったべつの絵を見て驚きます。その絵は、鼻や口がやけにリアルで精巧に描かれていたのです。《ヴァイオリンを持つ子ども》という絵です。黒っぽい背景のなかに、服と肌が白っぽい少女がいるので、絵全体がとても引き締まって見えました。影の使いかたが上手いからなのか、顔の作りがすごくリアルでCGのようでもあります。

 

《人形を抱く少女》と《ヴァイオリンを持つ子ども》。どちらも何かをもった少女が描かれています。でもこれらの絵が作風がまったくちがうのです。少なくとも素人目にはそう見えます。この二つの絵をならべてみると、同じ画家によるものだとは到底思えません。ですがこの掴みどころのなさによって、かえって「藤田嗣治」という画家にひきつけらました。

 

不気味な表情をしている女性たち

 

まあその安定しない感じが、アンバランスさが少々不気味ではありましたが。不気味といえば、藤田嗣治が絵画のなかで描く人間は、少し怖い。たとえば目は、白目以外の部分が黒く塗りつぶされていて、顔からは表情らしい表情が抜け落ちています。具体的な絵画でいうと、《母と子》や《二人の少女》、《二人の女》などです。

 

特に《二人の少女》に描かれている少女たちは、さながら、ホラー映画に出てくる妖怪です。藤田の絵画に描かれている、すべての人物がそうというわけではありませんが。なんであんな表情に描いたのだろう、と疑問に思います。

 

実際のモデルがあんな虚ろでこわい顔をしていたわけではないだろうし。かなりデフォルメしてあると感じました。そもそもモデルなどはいなくて、はじめから想像だけで描いたのかもしれません。と思っていたら、カタログの解説に「特定のモデルの存在が考えられる」とありました(笑)。

 

《聖女》。デフォルメされている作品つながり。縦に引き伸ばされた身体、異様に長い手先。描かれている場所はたぶん教会だと思う。協会とはだれか信者を救う場所であるはずだけれど、とてもそんな雰囲気には見えない。細かい手先、引き伸ばされた身体で、なんとなく「CLAMP」のイラストを思い出しました。

 

周りからの影響が見られる初期の作品

 

藤田の最初期の絵画に、《自画像》や《婦人像》があります。これらの絵を後のほう絵と比べると絵柄のちがいに驚きます。最初の絵のほうが立体感があって、色も豊かで、後期の絵よりむしろ上手く描けているように見えてしまいました。《自画像》などは、藤田嗣治が美術学校にいたときに描かれたもの。まだ自分の画家としてのスタイルが固まる前だったのかもしれません。

 

《朝鮮風景》。この絵を見た瞬間に、「まちがいなく“印象派”の影響を受けてるな」と思いました。人物を細かく描きこまなかったり、自然の緑を表現するのに色をそのままおいたり、水面にぼんやりと木々が映り込んでいるのなんかそっくりです。あくまでわたしの“印象”ですが。

 

藤田は東京美術学校で「西洋画科」にいたそうですから、印象派に影響を受けている可能性はおおいにありそうです。

 

藤田嗣治の絵画には一貫性がない?!

 

美術展の真ん中あたりまで見たとき、ふと気づきました。「藤田嗣治の絵って統一感がない!」。人物の身体が細長くて、肌が白くて、目が黒くて虚ろ、というのが藤田絵画の特徴かと思っていたらどうやらそうでもないようです。

 

たとえば印象派の画家なら、人物を描いても風景を描いてもその画家の特徴が反映されていて、なんとなくだれの絵かわかったりします。でも藤田嗣治の絵にはそれがありません。絵を見る人からすれば、絵柄がコロコロ変わって面白いともいえます。その分特徴を捉えづらいともいえますが。

 

風景画はとてもセンスがある

 

人物画とうって変わって、風景画はとても素直な絵でした。そもそも藤田嗣治の描く人物画は特徴がありすぎます。ボールペンで描いたような細い輪郭線。白人にしたって白すぎる「乳白色」の肌。感情がまったく読み取れない虚ろな目。奇抜すぎます。

 

正直藤田嗣治の絵では、人物画よりも風景画のほうが好きになりました。なぜかというと、風景の選びかた、切り取りかたにとてもセンスを感じたからです。「どのように描くか」ではなくて、「何を、どの風景を描くか」。その題材選びだけで、絵の半分は完成しているような気すらします。

 

一見なんでもないような風景。小高い丘(《巴里城門》)や街角の道路(《雪のパリの町並み》)、民家や農場(《モンルージュ、パリ》)などです。普通の風景が、絵画として切り取られた瞬間にグッと魅力的な風景にうつる。それがすごかったですね。藤田嗣治には風景画のイメージはないかもしれません。でもこれもひとつの藤田嗣治“らしさ”だと思います。

 

「乳白色」の裸婦画は強烈

 

鑑賞しながら気づいたことがもうひとつ。それは藤田嗣治の絵画が、西洋美術と日本美術が融合したもの(?)ということです。もう少しいえば、西洋画の「塗り」と日本画の「線」がひとつになっているのでは?と思ったのです。このことに気づいたのは「裸婦」を見ていたときです。

 

藤田嗣治といえば、「裸婦画」も印象的です。

すべてがそうではないですが、藤田の裸婦画は、白と黒のコントラストがかなり強烈なのです。たとえば《横たわる裸婦》。横に長い画面いっぱいに、全裸の女性がポーズをとっています。普通の裸婦画とちがうのは、その女性の肌がほとんど真っ白ということ。シーツの白とほぼ同じ色に見えます。女性の輪郭線がなければ、体がシーツに溶け出してしまいそう。

 

さらに、この女性の体には描き込みがほとんどされていないように見えます。その下にあるシーツのほうが、よっぽど細かく描き込まれています。どうしてこんなに肌を白くしたのだろう、と不思議に思いました。そのせいで、人間というより“人形”っぽくなってしまっています。

 

肌が真っ白なおかげで、秘部の陰毛の黒がアクセントとして際立っています。が、まさかそのために肌を白くしたわけではないはず。

 

これは、絵の解説を読んだら解決しました。藤田は、女性の透明感のある肌を絵画のなかで表現するために、わざと肌の色に「乳白色」をつかっていたのです。さらに背景を真っ黒にすることで、色の対比でより肌が綺麗に見える。こういうことだったのでした。

 

正直最初見たときは、「なんか変」と思ってしまったのですが(失礼)、理由を知るとすんなり納得しました。

 

裸婦の描き込みが少ないといいましたが、それは影の使いかたが上手いからだと思います。裸婦は服などを着ていませんから、肌が露出している状態です。ということは、皮膚の下にある骨とか筋肉もうっすらと見えることになります。この骨や筋肉の描写を影をつかうのが上手いのです。

 

たとえば《立つ裸婦》や《友情》がそうです。輪郭は細い線なのに、その肉体は触れそうなほどの立体感があります。

 

自分の体を見下ろしてみてください。人間の肉体はわりと凹凸があって、むしろ平面なところはほとんどありません。たぶんこの骨や筋肉の描写があるから、かろうじて真っ白な肌の女性を人間だと認識できるのではないか、と思います。体に凹凸があるだけで、それを触れるような立体感がでてきます。

 

これが、少ない描き込みでも女性らしい柔らかなふくらみを感じられる理由ではないでしょうか。

 

「藤田嗣治」そのものが“アート”

 

美術展を通して見て感じたのは、作風が頻繁に変わるなあということ。こうして藤田嗣治の作品としてまとまっていなければ、だれが描いたのかわからないと思うような絵もいくつかありました。それくらい、モチーフや画法が変化しているように思えます。

 

飽き性なのかなとも思いましたが、絵のスタイルを変えるというのは、そんなに簡単ではないはずです。次々と場所を変え、モチーフを変え、描き方を変える。逆にそれが藤田嗣治の技術力の高さを証明しているともいえます。

 

一貫性がないともいえますが、その作風の移り変わり自体が一つの作品のようにも思えました。作品の変遷自体がアート。見る人を飽きさせないという意味では、そう表現してもいいのではないかと思いました。